「時代遅れの役所の対応」2006・11・7

 
 


今朝の事務所の朝礼における朝礼当番のスタッフの話題は、興味深いものでした。
彼は昨年度確定申告を行なったようですが、その時の申告ミスが今頃になって指摘され、その対応の行動を取るべく税務署に行ったところ、2度、3度、税務署や市役所をたらいまわしにされた不愉快な体験を話していました。
このような体験は恐らく殆ど全員の大人にあるのではないのでしょうか。

こういう場合、役所の現場担当者を相手に交渉しても埒があきません。
“暖簾に腕押し”とはこのことかと、フラストレーションが貯まるかぎりです。
現場の担当者は、無表情のまま一方的に自分の担当・責務を繰り返すばかりです。
「それはうちではできません。」「うちではやりません。」「うちでは解りません。」「○○部署へ行ってください。」ひどい場合は、「それは、もしかしたら○○部署かもしれません。○○部署で聞いてください。」
などの劣悪サービスです。

そうして次に訪ねた○○部署も、私たちユーザの要求するサービスを供する的確な部門でなく、その結果、私たちユーザは始めおろおろしながら、途中からは怒りながら、最後はへとへとになっていろんな部署サーフィンをすることになります。
この原因は、業務取り組み文化として役所では、各担当者に自身の作業業務のみに精通するよう訓練を重ねてきた成果がみごとに実っているのだと思います。(皮肉ですよ!)

この部分業務のみに精通することを大切にする文化は、役所に限らず民間組織にも至るところに見受けられます。
確かに産業革命後の工業化社会においては、このように部分に精通することは、非常に効率的・生産的でした。
工場におけるラインでは、非常に細分化された自身の持ち場だけに熟練することが最も高い生産性を実現できます。
その発想習慣がいつの間にか私たち文明国の人々の思考の基本に定着しています。

ですから、上記のような役所が供するサービスの不良や民間組織における不自由に対しても無感覚になってしまっているのではないかと思います。
つまり、思考における優先順位・無意識の価値基準として先ず部分最適があり、次に全体最適があるのです。
その結果、いろんなところで事故や事件が多発しています。

ちょっと話が広がりすぎますが、最近話題の“いじめによる思春期の子供の自殺”や“教育問題”“企業が起こす、信じられないような不良品供出や非倫理的な行動”なども同じ理論で説明できると、考えます。
広げた話を身近に戻すと、部分最適的発想を私たちの日常の仕事ぶりへの教訓として、全体最適優先発想へ改めて欲しいものです。

システム全体、業務全体、ユーザの運用状況へのイメージ・配慮が乏しい中で作成されるプログラムは、プログラム作成中の作業効率が悪く、さらにはその成果物は現場においてあまり有難い製品とは生り得ません。
つまり、生産性・品質共に悪いのです。
全体・イメージを大切にする成熟社会の消費ニーズを実現しなければならない現代の産業社会においては、部分最適的発想・構造は時流にフィットしないのです。



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