第795回 「働き方改革?」
「働き方改革」や「ワークライフバランス」と、いうような言葉が
NETを含むマスメディアを介して頻繁に登場しています。
メディアがしょちゅう流し、おまけに政治的発言が加わると、
もうその言葉は最もトレンドになってしまっています。
日本中が「働き方改革」、「ワークライフバランス」精神に則り、
余裕のある働き方をする事が正しいことであり、残業や休日出勤で働くスタッフを抱える企業は、
まるで犯罪者ででもあるかのように「ブラック」と呼ぶ、そんなな空気が蔓延してきています。
その上、段々エスカレートした議論は、企業の残業実績時間を所轄官庁が管理する、
そんなしくみ論まで発展しています。
こういう世間の空気に触発されるのか、
私の会社の内部でも時々残業時間に関する話題で賑わっているようです。
退社時刻が過ぎても社内に残っているなら残業申請するべきだ、遅くまで残ってやることが、
自分の勉強のためだったら残業申請ではない、いえいえ、自分が勉強して業務に役だたせるのだったらやっぱり会社のためだから残業だ、などなど・・。
これらの様子を少し客観的に眺めていると、我々民族の純朴で素直な特性が見えます。
背景に権威がチラつくと、無条件に正しいことであると言う、世論形成がなされるようです。
そういう流れで、あの悲惨な第二次世界大戦に突入した歴史を持つと言うのに・・。
かなりおかしいです。
「働き方改革」の議論についても思うのですが、議論がキチンと分析されず、それ故整理もされず、
言葉だけが幹線道路を突っ走っています。
働くことを分解しますと、働くことから得られる報酬は、
経済的及び精神的報酬が大半だと、思います。
その報酬を得るためのインプットは、働く人の自らの時間と労力と精神的苦労をコストとして投入しています。
資本主義社会ですから、資金や資源を投入コストにしている場合もありますが、
「働き方改革」を論じる場合は、自らの労力や時間を投入しているケースが対象です。
つまり、単純化すると、今までは働くことによって時間や労力の投入見合いの報酬を得る、
というバランスがそれなりに成り立たっていました。
勿論、個々には不満やばらつき(格差など)はありますが、全体を俯瞰すると、
概ねこういう均衡状態にある働く人たちの現状を、
「働き片改革」でどうのようにバランスさせる、と言うのでしょうか。
政府が主導する「働き片改革」で実現しようとしているのは、
投入するコスト(時間や労力)を可能な限り減少させ、得られるリターンは現状のまま、
あるいは望むべきはより増大させる、と言うようないたって理屈だけは都合の良いように思えます。
算数的計算原理に従うならば、投入コストを減らしてリターンを現状のまま保つには、
より知恵を働かせて生産性を高めるしかありません。
このプロセスをスキップした「働き片改革」は、リターンも合わせて減少させてしまいますので、
成り立たせられません。
それでも無理に推し進めると、生産する人や体制を崩壊させかねません。
つまり、働く人の経済生活が成り立たなくなることや、
会社組織の存続ができなくなる可能性を含むのです。
ですから、働き方改革を成功させるには、その手順を踏む必要があります。
先ずは、生産性の向上へ取組み、
少なくともリターンを現状量と同等程度は確保することが、優先する課題です。
残業についても、同様です。
投入時間や労力に見合う生産(リターン)を得る事が出来るのなら、残業も構いません。
残業代のリターンよりも自分の時間への価値を大切に思うのでしたら、
出来るだけ生産性を上げる努力と工夫が必要です。
つまり、働く時間に対する考え方は、
生産性(働く時間内に出す成果)と合わせて考える必要があります。