第797回 「叱られ上手」
このところ14歳の中学生棋士、藤井聡太さんの大活躍が話題を呼んでいます。
はるかに年上のオジサン棋士達を楽々と打ち負かして行く様子は、
気負った様子もなく軽くゲームに興じている中学生と言う感じで、いかにも今世代若者らしいです。
私が将棋の対戦を見るのは、TVニュースで放映された時に流し見る程度でしかありません。
ほんのたまにしか見ませんが、将棋の勝負の終わりのシーンを見るのは、とても好きです。
何故なら、負けた側が「負けました。」と、自らの負けをキチンと表明し、
そしてチラッと対戦相手の勝者に敬意を表す表情を見るのが、何とも清々しく心地よいからです。
将棋に限りませんが、日本では剣道、柔道、その他の「○○道」の勝負において、
敗者は必ず自らの負けを正々堂々と表明し、対戦相手である勝者に敬意を表します。
この負けを正面からキチンと受け止める心の持ち方が、自らの心と技を磨く正攻法であり、
それ故その点に拘った指導がなされて来たのだと、思います。
私の会社のスタッフ評価は、職位ごとに設けられた評価項目に則って行ないます。
そして、この評価項目に沿って自身による評価、上司からの評価、他の同僚からの評価と、
出来るだけ多面的な評価を参考に評価を決めます。
若手社員向け評価項目の中に
「叱られ上手」や「叱られてもめげない」と、言う項目を設けています。
これは、冒頭に書きました将棋の対戦における敗者と同様、
叱られる体験や失敗の体験は、正しく受け止めるなら、
学びにとってとても効果的なものであるはずだからです。
つまり、叱られ上手というのは、叱られることをキチンと正面から受け止め、
叱られたことを通じて自らの心と行動(仕事力)を、より一層育成しようとする力を指します。
そのため叱り役は、熱意を持って叱ります。
これを受けた側は、勝負における敗者と同じ心持、行動であることが望ましいです。
仮に、叱られる側が、正面から叱りを受け止めない場合は、叱り行為は全く歪んでしまい、
育成どころか育成を阻害することになります。
キチンと叱られることを受け止め、自らの非を認める。そして、そのことを詫びる。
さらに、その叱られた指摘内容をどのようにして自分の今後に役だたせるか、について深く考える。
例えば、次に同じ過ちを繰り返さないための方策について考え実施するや、
より一層自らの行為の質を上げるための方策を考え実施する、などです。
この繰り返しが、成長を促します。
一方、叱られたことが歪んで受け止められると、叱り役に苦手意識を持つ。
叱られることから受ける自己の心への衝撃
(叱られるのが怖い、人前で恥をかかされ見っとも無い、自分が卑小に見えて情けない、などなど)から守ろうと身構え、
叱られた事実を認めない、無視する、苦手意識を持ってしまった叱り役と距離を置く。
などの行為となってしまいます。
これでは、成長が阻害されるのは明らかですね。叱られてめげる気持ちは誰しもあります。
人間ですから、プライドを持ちます。
プライドを傷つけられたと感ずると、めげるのは当たり前です。
でもめげるのは、ほんの瞬きほどの一瞬に留め、
その気持ちをバネに叱られた事実を戦略的に活用しましょう。
何時までもめげたままだと、叱られた側の心と成長は歪んだままになります。
その結果、叱り役の行為は全くの徒労となります。
叱る行為は、叱る側にとっても大変労力が要ります。
人間的感情が豊かな人ほど叱った後の心持は、決して快いものではありません。
それにも拘らず、後輩や部下の育成の為に敢えてしんどい叱り役を、担ってくれているのです。
叱られる側が、そういう叱り役の心持を少しでも推測する知性を持つならば、
キチンと正面から叱られることに向き合えるはずです。