第874回 「大人とは」
昨日は、「成人の日」で暖かく良く晴れた、気持ちの良い休日でした。
私は気持ちも軽く、所用で街に出かけたのですが、予想に反して晴れ着姿の若者の姿を殆ど見かけませんでした。以前、成人の日には、いたるところで晴れ着姿のはしゃぐ新成人たちを見かけたものですが、最近の新成人は、それらしい晴れ着などダサイと、あまり着ないのだろうか、と思ったりしていました。
ところが、夕方のニュースでは、大阪が誇る新名所「あべのハルカス」の地下1階から展望台のある最上階までの60階を階段で上る「地上300メートルの成人式」に参加した新成人たちの映像が映っていました。いずれも晴れ着、晴れ着、晴れ着。振り袖姿に足元はスニーカーらしき新成人女子がインタビューに答えている映像です。
どうも私が出掛けたコースや時間帯が、新成人たちに遭遇する確率の低いコースだったようです。
いたるところで新成人を見かけた一昔前とは異なり、少子化で新成人の人数が減少し、成人式の多様化で必ずしも「成人の日」に式を執り行うとは限らなくなった、トレンド「成人の日」現象のようです。
ところで「あべのハルカス」を階段で上る「地上300メートルの成人式」のキャッチフレーズは、「大人の階段を上ろう」だそうです。このキャッチフレーズは、解り易いキャッチフレーズですね。
登り始めは良いけれど60階まで登り進めるとなると、途中とても苦しい体験をすることになるので、途中で諦める人や挫折する人がいるかもしれない。そして、それを諦めずに登り遂げることができた人だけが、やっと大人になれるのだ。
つまり、大人になるには途中で諦めることや、挫折することは認められない、ということでしょうか。
このように書いていると少し不安になってきます。
何故なら、現在大人と思える年齢の人たち全員が、このような覚悟を持って大人に臨み、このような大変な体験を得て大人になっている人たちばかりなのだ、とは必ずしも思えないからです。
もし、世間の大人全員がパーフェクトな大人ばかりだったら、秩序正しく整然と社会の営みが継続的に続けられ、事件や事故の少ない社会が出来上がっているはずです。
一方、そういう整然とした社会には芸術はあまり育たず、目立つ革新も起こり得ないでしょう。
ウ~ン・・・、じゃあ立派な大人、とはどういうことを指すのだろうか、という疑問が湧いてきます。現実のいろんな事象を観察すると、もしかしたら大人は、到達して成るものではなく(つまり上がりがなく)、理想の大人をイメージしながら、努力し追い続けるもの、常に進行形だと考える方が、納得できそうです。
そうは言いながら、周りを見渡して
「大人らしくない・・・・」
「大人なのに、大人らしく振舞えよ!」と、顰蹙を覚えさせる人がいます。
例えば、
誰かの示唆なしには、自主的に行動しない人。責任感が欠乏している、自分の責任の自覚がまったくないと、感じさせる人。
周囲の人たちに配慮することができず、自分の都合だけを基準に言動する人。
自立的な精神力が弱く、自己制御、管理が苦手な為、自己実現力が乏しく人。
他者と交わることが極端に苦手な人。
こういう人たちは、最低限の大人の資質条件が満たされていない人です。
つまり、こういう「大人なのに・・」と、眉を顰めさせる人たちの逆説としての大人の基本力とは、他者たちと交わり、ある時には他者の役に立ち、ある時には他者から助けてもらいながら、自立責任で生きて行くことができることだろうと、考えます。
つまり、大概の人が普通に行っていることが、大人の振る舞いです。
そして、大人力の高い人ほど大きな人の輪の中で生きてゆくことができる、大勢の人の役に立ち、大勢の人から助けてもらえる人です。
そういう高い大人力を目指して、新成人も既に成人年齢を超えた人たちも切磋琢磨し続けるのが理想かな。