第907回 「台風による停電に思う」
今朝の新聞情報によると、台風15号の影響による千葉の広域停電は、未だ7万3000戸で続いているそうです。
昨年の丁度同じ時節、台風21号の影響で自宅マンションが数日間停電になった私は、
大半を電気に頼る現代生活において、電気遮断に由って生じる不自由、不便、それらを通じて生ずる恐怖、などを思い出し、ひとごとではない気がしています。
一方、報道される被災住民の様子では、東京電力の復旧に対する説明会等で「東電の言うことは、信用できない!」と、不満を募らせている様子も報じられています。
このニュースについて、今朝の朝礼スタッフは「被災住民は、苦情ばかりを漏らし過ぎでは?
それほど不満なら、電力会社に頼らずに自家発電などの工夫をしたら良い!自助努力をせずに
文句ばかり言うものではない!」と、かなり厳しいコメントをしていました。確かにインタビューに対して、ある被災住民が「もう我慢ならない!何とかして下さい、千葉を助けて!」と、
ヒステリックに叫ぶ映像には、さすがな私も「人のせいにするな、人に頼るな、自分事でしょう。」と、同情どころか眉を顰めてしまいました。
今の時代に根性論を持ち出すつもりはありませんが、他の地域で生じた被害や、より一層深刻な
被害に遭った地方の人たちは、黙々と復旧に向けて頑張っています。
こういう大人の遺伝子を、私たち日本人は従来持ち続けていたはずです。
どんな不遇な目に遭っても、黙々と人に頼らず、目の前のことをこなしながら頑張り続けて来ました。
一方、最近では、被災者の方々をサポートするためにボランティアさんたちが、駆けつけてくれます。
また、社会は持続可能な社会を標榜して、ハードソフトの環境改善がなされようとしています。そういう頼れる環境になりつつあるからか、あるいは、それ故に甘えが生じるのか、
自身の問題として自力で頑張る、この優れた大人の遺伝子が、私たちの振る舞いから段々消失してきているような気がします。一方では、自分たちから退去しかけたこういう気持ちを、
忍ぶ文化はいまだ健在のようです。
例えばパラリンピック、その他のスポーツ競技への応援などに、そのことが感じ取れます。
日々の絶え間ない努力によって、身体能力の制約を超えるような成果を出す選手たちに、大きな声援を送ります。自分は頑張らないけれど、他者が頑張ることには大きく賛美を贈る、という子供的な
名残文化です。
文化は、世情と共に変わりますから批判するものでもありません。
しかし、今回の停電騒動をきっかけに、最近の若い人たちの自分の身に起こるアクシデントへの
耐性の乏しさを感じました。臆病とも言える耐性の乏しさです。確かに他者の身辺に起きた
アクシデントへは、冷静に客観的に、そして理性的に対応します。しかし、自分の身に起きると、
途端に無力と言うか思考停止です。恐らく、パニックってしまって、何も考えられない、手をつけられない状態になるのではないかと、思います。
そう言えば、日頃から些細なことに動揺する、専門家に頼ろうとする、などとても臆病なのかしら、と感じることが往々にしてあります。
何故臆病なのか、恐らく自由度が高い環境に居ることで、自身の行動基準が解らないのでしょう。基準が不明なため、どうすれば人並みなのか、人から外れているのか、そう言うことが不安でなりません。自己に自信がなくなり、未体験の事がらに対しては、どうなればよいのかわからず、
その結果失敗することを恐れ、「何もしないのが最良!」と、やたら臆病になってしまっています。
そう言えば、新卒求人面接で「当社は、個々のスタッフの自由度が高く、過ごしやすい環境です。」と、会社をアピールすると、最近の応募学生は、反応が薄く興味を示さないか、
逆に困ったような顔をする人が多くなったと、感じています。
それは、自由度が高すぎると、自己の物差しを持たない人は、物差しがないため何を何処まで
遣るべきか基準が解らなく、困るからなのでしょう。
未来の日本社会が少し不安になりかけますが、それはそれで上手く機能する社会を、
作りだすのでしょう。
今まで人類社会が、そういう事の繰り返しで秩序を保ってきたように。