第796回 「人は均質ではない」
私の会社では給与の更新時期である今シーズンは、
自己評価、相互評価などの評価シーズンでもあります。
提出された評価表を眺めている時、興味深い規則性を発見しました。
役職者やベテランスタッフは、他者評価より自己評価のほうが厳しい傾向にあります。
一方、新入社員世代に近いほど、他者評価と自己評価のギャップが大きいのです。
自己評価が異常に高いのです。
そういえば、ここ最近の新入社員世代は、
自分には出来ないと言うことを、認知しない傾向にある気がしています。
他者に出来ることなら、自分にも出来るはずだ。
出来ないのは、教えてもらっていないからだ。
訓練させてもらっていないからだ。
自分には非はなく、非があるのは自分の周囲環境のようです。
少し極端に言うと、こういう意識を持つように感じていましたが、
彼らの自己評価を見て、その理由が理解できた気がしています。
彼らが“他者に出来て、自分に出来ないことはない”と、いう意識を持つのは、
彼らが受けて来た教育のせいだ!と、一般的に言われています。
ゆとり世代、横並び教育の弊害だ、と言うことのようです。
他者と差をつけない教育現場での評価・指導のお陰(?せい)で、
他者には出来て、自分には出来ない、と言う劣等感とは無縁のようです。
一方、そういう意識の新入社員世代を受け入れた企業側は、かなり大変です。
当事者に“他者には出来ても、自分には出来ない。”と、言う自覚が稀薄のため、
上司や先輩の“あなたには出来ない”と、言う評価はハラスメントまがいになりがちです。
学生でいる間は、他者と自分の能力の違いはさしたるものでない、と安穏と過ごして来た彼らは、社会に出た途端に、信じられないような差別的現実と向き合います。
その衝撃の大きさ故、精神的に落ち込んでしまう。落ち込みから立ち直れないので心療内科で診察を受けると、鬱病だとか適応障害などの診断が下される。親や周囲は、彼らを追い込んだのは、上司や先輩のブラックハラスメントだ、と騒ぎ立てる。このような循環になっているのでしょうか。
最近の若い人たちは、メンタル面が弱い、と言いますが、彼らのメンタルを弱くしているのは公的教育現場であり、周囲の大人たちだ、と私は思っています。
学校や近隣で何が事件や事故があると、保護者会は“子供達のメンタル面に影響が出ないよう対応しなければ”など、騒ぎ立てます。
子供達の目(精神)を、事件や事故の悲惨さから覆い隠そうとします。
こういう対応が、子供達のストレス耐性を弱めている、生存するために必要な知を育む機会を奪ってしまっている、と思います。
元来、社会には様々なことが起こるものです。
そして、自分の身の回りに起こる様々な事件や事故から、何とか自己を守る学習は、
現実に遭遇するのでなければ行う事はできません。
あるいは、災害訓練のような訓練を体験するかです。
社会には運や不運があります。
不条理も存在します。
現実社会は、決して総ての人に公平ではありません。
誰でもが不運や不条理に見舞われる可能性は、多分にあります。
それでも何とか生きていくための学びが、絶対に必要なのです。
その学びは、現実に遭遇し、五感を通じて感じ取り、五感を駆使して学ぶしかありません。
“他者は遂行できるけれど、自分には難しい”ことも同様です。
人間の能力は、均質ではありません。
それぞれ姿かたちが異なるように、能力にもバラつきがあります。
自己の能力のバラつき特性を肯定し、それで自分はどうするのか?
苦手なこともあるが、得意もあるかもしれない。
得意で頑張ることはできないのか?
あるいは、苦手をどの程度まで普通に近づける事が出来るのか。
と、いうような自己分析を行ない、これからの人生を戦略的に生きていくためにも、
他者とは異なる自分をしっかり肯定する必要があります。