第978回 「縁起の訓え」
スタッフの一人が、周囲の人的環境に馴染めない気持ちが大きくなって、とても重い気持ちを抱えている様子が、周囲から見ていても明らかになってきています。
当事者スタッフは、「もうこんな環境にはとても耐えられない。毎日彼らと顔を合わせることを思うと、いっそのこと辞めてしまおうかと思う。でも、手掛け中の業務への責任を思うと、放り出してしまおうこともできず、とてもしんどい。」と、漏らしています。責任感が強く真面目だからこそ、そのしんどい感は一層大きい様です。
人が感じるストレスの大半は人的環境に由縁するようです。そして、何らかの手当をする暇もなく、残念なことにそのストレス故にいつの間にか辞めてしまう、というケースを多く見てきました。そして、辞めてしまうおうか、と言うほど重症でなくても、多くの人が同様の感情を抱いた経験を、持っていると思います。
耐えられない、というようなネガティブな感情は、大きくなるのがとても早いですから、野放しにしておくと、直ぐに抱えきれないほどに膨張してしまいます。その上、そういう負の感情を感じた時に、人は自分を守るために自分で自分自身を抱きしめるような気持ちを働かせます。そうしていると、一瞬心地よく感じられる瞬間が訪れます。この感情に浸っている時間が、事態を悪化させることにもなります。もしかしたら、引き籠りなどの現象も、可哀そうな自分を自分で抱きしめている内に、引き返すタイミングを失したのかもしれません。その間にもネガティブ感情は、益々膨張を続けているからです。膨張するネガティブ感情は、放置するしかないのでしょうか。どうしたら良いのでしょうか。お釈迦様の訓えに「縁起」という訓えがあります。
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって、独立自存のものではない。それ故、条件や原因がなくなれば、今の状況である結果も自然となくなる。というような訓えだと、私は理解しています。つまり、悩むのは自分の目線からしか物事を捉えていないのであって、それ故自分にとって不都合なことが、自分にとっての悩みとなる。
一方、問題を感じたら視点を変えて、周囲の人の立場や感情にとって、今の状況はどう映っているのか。自分が周囲に与えている印象や感情は、どんなものなのか、と自分を客観視し、改めることの必要性が説かれています。そして、環境の中にいる自身を客観視すると、相手にとって好ましい自身の言動はどうあるべきかが浮かび上ってきます。
よく言われている言葉に「他者を変えることはできない。状況を変えるには、自分が変わるしかない。」と言うような意味のモノがあります。この言葉の原理を、釈迦の「縁起」の訓えから汲み取ることが出来ます。そして、こういう自身を客観視しながら、自身を変えて行くことを繰り返し体験することを通して、人間の成長はなされるようです。ですから、人的環境問題であれ、何であれネガティブ感情が生じた時は、自身を客観視し、状況の改善を行い一層の成長を遂げることのできるポジティブなチャンスなのです。
こういう貴重なチャンスを、もうダメだ、の一言で放棄するのは、とても勿体ないことです。