第774回 「人は個々に異なるものだから」
2016年も残り僅か数日と、なりました。
最近の私たちの生活は、年が改まったからと言って、日常生活に格別の違いはありません。
それでも年末年始の休暇の前に片付けて置きたい雑事を眼の前にして、
何かと慌ただしい日々を送っています。
しかしながら、よくよく考えると、何が何でも年内に済まさなければならないことばかりでは
ありません。
自分勝手な気持ち、つまり年末年始には自分を業務から開放したいが為に慌ただしく年内に片付けようとしている事柄も、中には含まれて居ります。
全てを何が何でも年末にやりきってしまおうと、思うために慌ただしく、こういう理由で年中何らかの業務に追われるように過ごしている自分を、改めて冷ややかな目で眺める余裕が出てきました。
ところで、何故それ程焦って年内に気になる業務を片付けてしまいたい、と思うのかと言いますと、
年末年始の休暇中にやろうと楽しみにしている事を、たくさん貯めているからなのです。
貯まった読書もしたいし、行きたいと思いながら行きそびれている美術館などにも行きたいと、
思っています。
私は自分に全く絵心が無いことを自覚していますが、絵画や写真などを見るのは大好きです。
映画や小説、舞台も大好きです。学生だった頃、その理由を考えたことがあります。
様々の理由を思いつきました。
なかでも一番興味深いのは、同一の対象物に対して自分が描く景色と、
造り手の描く景色の違いを確認することに、あるようです。
これは、絵画でも写真や小説でも何にでも共通することのようです。
以前は、その違いを確認した後、ただ興味深く、無邪気に面白いと感じていました。
その後、歳を経るごとにその違いを比べることによって、自分の固定観念のようなものを探るようになりました。
つまり自分の思考経路にあるバイアスを感じ、それを掴まえ平板にしようと努力しているつもりなのです。
そのためには、時には私自身に映る景色の背景と、造り手に映ったのであろう景色の背景の仮説をたて、それぞれの景色に辿りつくまでの過程を想像する、などの面倒くさいゲームを頭の中で行ないながら、それを楽しんだりしています。
つまるところ、美術館で見る絵画や写真、あるいは映画などの手軽な文化体験は、私にとって軽い(あくまでも軽い)修行になっているようです。
それは、他者の立場になって“想像力”を働かすや、価値観が異なるかもしれない人を理解する、
などの体験訓練にもなります。
スタッフの中には、
「仕事現場の新しい人的環境に馴染めず、どうも自分とは文化が異なるようです。そういう人たちとの業務遂行はしんどいので何とかして下さい。」
と、寄りかかり精神を曝け出すようなことを口にする人が居ます。
あるいは、
「発注企業のメンバー社員の人々から高圧的に振舞われて、自分のプライドが傷つきました。もう、やっていられません。」
と、言うような最終通告をする人や、実際にそういう理由で離職した精神が脆弱な人が、スタッフのなかには居ます。
社会生活を行なうには価値観が異なる人と、上手くやって行くことは当たり前です。
人はそれぞれ異なります。個々の人間は、機械生産ではなく、手作り生産ですから異なるのが当たり前です。
その違いを個々のアイデンティティとして尊重するのが、最近の一般的な考え方です。
そして、自分との違いを尊重しながら、双方の折り合い点を探り上手く遣って行くのが、自立した社会人の当然の行為です。
ところが、自らはそういう工夫に挑戦することなく、自分にとって居心地の良い環境調整を外部に依存する精神は、自立した社会人精神を全く欠き、寄りかかり精神でしかありません。
プライドが傷つけられる、と感じる人たちは、自らの固定観念が自身のプライドを傷つけていることを、自覚すべきです。
自ら、”発注企業のメンバーは受注企業のメンバーより上位にある“
と、いう偏りを考えに潜ませており、その視点で全体の景色を見てしまい勝ちなのです。
そういうネガティブ階層構造意識は今や絶滅寸前思考です。
つまり、自身の持つ景色感の偏りや、自立心の欠落が、生き辛い環境を作り出しています。
前述したケースのようなことを感じている人は、もう一度
”人は、みんな異なるのだから、その中で平和に幸せに生きていくにはどうすべきなのか。“
について考え、社会人として当たり前に自立的に生きていく思考をリセットし直す必要があるように思います。
この機会に、自らの心をリセット、新しい心がけで来たる年を迎え、迎える年を幸せで平和な年にしましょう。