第781回 「ラッキー!介護や看病は自分の成長」
スタッフの中には、現在日常的に親の介護や看病、
他の家族の世話をしながら仕事を続けている人たちが居ます。
こういう事情は、働く人たちにとって他人事ではありません。
いずれ自分もそういう立場になる可能性が全員ではありませんが、多くの人たちにあります。
ですから、職場ではそういう人たちに理解を持って接してあげたい、と思います。
実際のところ、帰宅するなり自分のことはさておいて、様々な介護や看病の行為があり、
さらには夜中に度々起きなければならない場合もあるかもしれない。
度々病院などへの送り迎えがあるかもしれない。など、
表面的なことをざっと想像するだけでもかなり大きな負担です。大変な苦労だろうと、推測します。
しかし一方では、その当事者にとって大変価値のある時間のように思います。
誰でも公平に与えられるわけではない、大層価値ある時間です。
価値には二つの側面があります。ひとつは、心の充足感・幸福感です。
自分にとってかけがえの無い大切な人のために尽くすことの充足感です。
この感覚は、その事情が終了した時に空疎感が感じられる程大きなプラス感覚です。
もうひとつの価値の側は、自分の成長です。看病や介護をしながらも、自分の人生の営み
(即ち、社会人なら仕事です。)をキープするために、それなりの努力が必要です。
自分の人生は、今後も続くわけですからあまりいい加減なことは出来ません。
これらの双方に時間や心を遣り繰りしながら、双方共、恙無いように遣りきる、
そのスキル磨きをするだけでも、今後その当事者にとっての大きな財産になります。
たくさんの体験を積むことは、自分の経験資産を積み上げます。
ましてや、普通に暮らしていては体験し得ないややこしい体験や、苦しい体験は、濃い体験資産です。
最近は、社会人になりたての新人対象の教育において、「できるだけ他人には迷惑をかけない」、
「人が嫌だと思うようなことはしない」とか「その場の空気を読む」など、
普通に社会生活上当たり前のことを、殊更に教育する必要があります。
それほど今の若い人たちは、社会生活を恙無く送るための基礎知性が欠落しています。
その現象の原因は、取りも直さず体験量が乏しいからだろうと、私は思っています。
しかし、いくら机上で口を酸っぱく教育しても、体験が伴わなければ彼らの身にはつきません。
体験だけが人間が生きていく為の知恵を育んでくれます。
昔の人は「若いうちの苦労は買ってでもしろ!」と、言うようなことをいいました。
体験に苦労を伴うと、体験はより一層付加価値が増し、濃い体験知になるからです。ですから、
多様な体験を積むチャンスが与えられることはとても幸運であって、総ての人がそうではないのです。
自分は、ラッキーだ!と思って励んで欲しいと、思います。
その時期が永久に続くわけではありません。今の体験を大切にして濃密な時間を過ごして下さい。
介護や看病の時期が終わると、濃密だった時間が懐かしくなります。
できるだけ自分にとって大切な人を大切に介護、看病してあげて欲しいです。