第889回「未知なる未来」
長かったGWが終りました。その間に日本の元号は、平成から令和へと変わりました。
TVのニュースで知ったのですが、元号が変わる瞬間を大騒ぎして楽しんだ人たちがいたことに、少しばかり意外でした。
何でも楽しいことにしてしまう人たちの感性には新鮮さを感じますが、厳粛に迎えるはずの行事を、少し軽々しく扱うような感じがしたことも正直な事実です。
恐らく、楽しむという発想をした人たちには、そもそもから厳粛に迎えるという気持ちは、全く考えもつかないことなのでしょう。
厳粛にということと、楽しむことのどちらが正しいのでもなく、ただ感性・文化の違いがあるだけなのですが、楽しむ人たちの方が、解放感が高いような気がします。一方、厳粛感を全く喪失すると、天皇制への考え方が、かなり難しくなってしまいそうな気もします。
象徴天皇制でしか生活体験のない人達の文化・理解の仕方、若い人たちを中心とする文化の国際化(?)などが複層して難しい話になりそうです。
こういう未知の概念を具体的な行動に落とし、工夫された上皇様は、とても優れた方だと、感じ入ります。
10日間と言うたっぷり使い手のあるGWの半分を、私は旅行して過ごしました。積んどくだけで、段々高さが増す一方だった本も、少し低くなりました。
そして、永らく会っていなかった懐かしい友人や知人に久しぶりに会い、近況報告に花を咲かせました。
ところで、久しぶりに会った知人や友人が愚痴ばかりをこぼす、そんな経験はありませんか。
どうでしょう、楽しくないばかりか、折角久しぶりに会えたはずのその場から、去りたくなるような気分ですよね。
やたら愚痴の多い人は、周りの人たちまで重い気分を感染させるため、少し面倒くさい人です。
やたら、心配し過ぎの人もやはり周囲には、少し面倒くさい人です。
こういう人たちは、余り前に進めません。同じ場所に留まって足踏みしているような感じです。足踏みしながら、目に入る景色が変わらないことを嘆いている、そんなイメージを持ちます。
愚痴るのではなく、自分から動く、あるいは目の向け先を変えて違う景色を見なければ、前進できません。
前に進むと何があるのか、誰にも確たるものはわかりません。それだから、前に進んで出会えたものが、新鮮で有難いのです。
久しぶりに会った知人や友人たちと、新しい広がりや深まりを感じて、そんな思いに囚われました。
GWに入る直前、来年度採用の求人面接を実施しました。応募者の中に、優秀で是非採用したいと思う学生さんがいました。
結果的には、その学生さんの内定を見送りました。理由は、彼が希望していると話す将来が、不明瞭だったからです。具体的には解らないが、何となく私の会社に居ては実現できないのではないのか、さらに言えば、私の会社に入社すると、彼の将来像が壊れてしまうのではないのか、と言う不安を感じたからです。
しかし、今にして思えばそれは、間違った判断だったように思っています。将来を話す当事者にも、具体的に明確な未来が見えているわけではないので、不明瞭にならざるを得なかったのでしょう。
そして、聞いて理解しようとする私たちが、彼の未来と自分たちの未来とを重ねる時、それも同じく未知です。未知なのに具体的な姿をイメージしようとすることに無理があります。
確たる未来図が描けないから、その保障が出来ないからと、排除するのは自らが未来を排除しています。つまり足踏みしてしまっているのです。とても、残念で悔むばかりの出来事です。
未来は、目の前のことを無心に重ねることから生まれてきます。そんなことを考えながら、新元号を迎えてもう一度リセットだ、と気分を新たにしています。