第892回 「尊重される思想」
あるプロジェクトに参入して日が浅いベテランスタッフが、何となく冴えない顔付きなのに気付きました。
聞くと、そのプロジェクトの中心にいる顧客担当人々とのコミュニケーションに関して、少し悩んでいるようです。
彼は、とても如才なく、一般的には非常に社交的に映り、初対面の人とも打ち解けやすいと、私は今まで感じていました。
何故なら、他者と接する場面で、彼が苦手そうな様子を見かけたことは一度も無く、自然体で上手くやっている場面ばかりを見ていたからです。
ですから、彼が、他者とのコミュニケーションで悩むことはあり得無いと、私は思っていました。
ところが、目の前の彼は、かなり深刻な様子で落ち込んでいます。その場に同席していたのは、私と、同じプロジェクト仲間です。
仲間のスタッフはベテランスタッフよりやや年若く、と言ってもこちらもかなりベテランスタッフですが、該当プロジェクト経験が長いスタッフです。
どちらかと言うと、このスタッフは過去に、他者との交流に関して、問題を抱えた経験を少し持ちます。
ベテランスタッフの悩みの直接原因は、「顧客担当者様の一人に相談事があり、多忙そうな様子なので『お手すきになったら声掛けください。相談したいことがあります。』と、遠慮がちに伝えたようです。
ところが、その顧客担当者様は多忙のせいで、当日はそのことを忘れてしまい、翌日になって思い出したそうです。で、その後その顧客担当者様は、「相談事が解決しなければ、次の工程に進めないだろうに、何故自分から声掛けしないのだろう!消極的すぎる。本当にやる気はあるのか!」と、他の仲間に零したそうです。
その発言が、回り回って耳に入って来た当のベテランスタッフは、「遠慮して待っていたのですが、やる気がない!消極的だ!と、そしられるなんて。とてもじゃないが、このままでは遣って行けない。」と、落ち込んでいます。
一方、居合わせたやや若いスタッフは、「私は、何でも自分から率先して声掛けします。振り返れば、その行為が何よりも気に入ってもらえて、上手くやっていけている理由です。ですから、私がする様に自分から率先して声掛けすればよいのです。そうすべきです。私が上手くいっている例なのですから。」と、率先した話し掛けをするよう畳みかけます。
一方、悩んでいるベテランスタッフは、「私は今まで、自分を引かせることで相手に好感を与え、人づきあいは成功しています。ですから、いきなり率先して声掛けしろと言われても・・。できません。」と、益々落ち込んでいきます。
やや若いスタッフの言い分は、もっともらしく、一見正論です。
しかし、何事であれ成功体験を持つ人の言動は、成功体験に基づいた思想を拠り所にしています。
ですから、成功したサンプルがあるのでそのサンプル通りにすべきだ、と指摘された場合、人の思考はどうなるのでしょうか。
恐らく、そのサンプル通りの言動は自己の思想に叶っているのか(フィットアンドギャップ)を検討し、自己の思想に添うスタイルにカスタマイズしなければ、適用することが出来ないのだろうと、思います。
他者とのコミュニケーション、人の言動の複雑さを実感し、多くの気付きを私に与えてくれた出来事でした。
このエピソードの行方は、その後の成り行きを私も未だ確認できていません。でも、悩んでいたベテランスタッフは、きっと十分に検討した後、指摘を自分流にカスタマイズして、言動を改善しつつあるだろうと、信じています。
人が成熟してゆくためには、様々な摩擦に出会い、時には傷つきながら自己の思想や言動を洗練させてゆくしか方法は、ありません。
最近の若い人たちは、傷つくことを一切避けようとしますが、そうすると魅力ある大人になるには、とても時間がかかってしまいます。