第933回 「GWは、教養を磨く」
朝、私の自宅のあるマンションエレベーターの中で。
乗り合わせた近隣の人「あれっ、普通に出勤するのですか?」。私「はい、そうです。」。近隣の人「こういう時に大変ですね!」。私「まぁ、それほどでも(心の中では、じっと自宅にこもっているより動ける方が、私的には楽なのだけれど・・)」と、なんとも歯切れの悪い返事を返しました。
最後には「くれぐれもお気をつけて。」と、まるで戦場にでも向かう戦士のように丁寧に見送られました。
きっと、今は日本中のいろんな所で、朝にはこんな会話が交わされているのかもしれません。会社に出勤すると、パラパラ歯抜けのような僅かに出勤するスタッフだけが集まっての朝礼です。
何もかにもが、非日常的です。長引く対ウイルス体制にも疲弊感が出てきて、緊張が緩み勝ちになりますね。
来週からはゴールデンウィーク期間に入るのですが、外出のままならない長すぎる時間を、どのように過ごすのでしょうか。私は、何時か時間が出来たらゆっくり読もうと、積み上げている本の山への挑戦を予定していますが、外出もせずにひたすら読み続ける根気が果たして続くか、今からかなり不安です。
でも、普段は慌ただしく、拾い読みしかできないのですが、こういうたっぷりすぎる時間がある時こそ自分の内面磨き、教養を高めるためには、最適なタイミングだという思いはたっぷりあります。教養って、普段馴染みのない言葉ですね。
しかし、数年前、大学改革が世間で騒がれた時には、結構「教養主義」、「リベラルアーツ」などの言葉が、飛び交りました。昨今は実学ばかりが重視され、もっと教養(リベラルアーツ)を学ぶ場を設けるべきだ、と言うような文脈で使われたのです。
その際に引き合いに出されたのは、明治時代から昭和時代前期の頃の旧制高校や大学です。当時の教育界は、欧米に倣い教養は大変重視されていました。ですから教養を学ぶための時間をたっぷり確保していました。
確かにその後の教育改革により、大学や高校は段々実学だけを教えるように変化しており、教養はなおざりにされてしまい、さらには現実生活では疎んじられる気配すら感じます。教養は、実務とは直接の結び付き効果が見つけにくい、だから無駄だろう?という論法から、段々なおざりにされるようになったのかも知れません。
ここでの問いです。「教養は本当に役に立たないのか?」。その例として、よく聞く話ですが小学生などが「足し算や掛算以外の算数を勉強しても実生活では役に立たない。何のために勉強するのか?」と、言います。でも、大人になった人なら理解できると思うのですが、小学校や中学校で当時は無駄だと思っていた勉強のお陰で、問の見つけ方、答えの探し方を無意識のうちに修得しているのです。
確立した分野として、問の見つけ方、答えの探し方を学習した人は、学者や研究者以外にはいないと、思います。にもかかわらず、私達大人は何かの判断や、決断をしながら日々生活をしています。
無事に生きていく為のそういう能力は、子供の頃には無駄だと思った、何の役にも立たないと思った教科の勉強を通じて、無意識に習得したスキルなのです。
教養というのは、こういうものだと考えます。普段は、仕事のためにより良い仕事の成果を出せるよう、仕事を通じて知識や技術を学びます。教養は、よりよく生きるために学ぶものだと考えます。質問の出し方、答えの組み立て方など、生きていくための手段を磨くのです。
そうすると、心が豊かになり、思考グレードがレベルアップし、人間の質が上がるようにすら思えます。そのためには、頭を柔らかくしなければなりません。人の意見を聞き、人の意見を吸収し、読書を通じて様々な考え方を知り吸収する、そんな学び方です。
ですから、ある程度時間や気持ちに余裕があるほうが効果的です。そして、今は人との交流に制約がありますので、手段としては読書が最適だと思うのです。GWは、読書に挑戦して自分磨きしませんか?