第953回 「常識外」
私は普段、嗜む程度にゲームをする。
だが、それに対する世間の目は未だ冷たいものがあるようだ。
私はこの視線について疑問に思うことがある。
読書、映画鑑賞、スポーツに音楽鑑賞、楽器など、娯楽や趣味などと呼ばれるものはいくつもある中で、ボードゲーム、デジタルゲームなど、なぜゲームに対する風当たりはこれほど強いのだろうか。
それらの間にある違いとはなんなのだろうか。
ゲームに対する意見はいくつかある。
よくあるものを挙げるとするならば、目が悪くなる。勉強ができなくなる。夜更かししてしまう。など、あまりよくないイメージが多数を占める。
だが、少し考えてみると、それらは他の物事に対してもいえるものなのだ。
例えば、目が悪くなる、といった意見。これは暗い場所でデジタルゲームなどをすることが大半の原因であり、暗い場所で読書や勉強をした場合にも発生する事象だ。つまり、ゲームに必ずしも起因するものではない。
同じく、勉強ができなくなる、夜更かししてしまうという意見も、それらは本人の自己管理の甘さに起因することであり、ゲーム以外でも、テレビ、読書、楽器や映画鑑賞など、すべてのことに言えるものだろう。
では、なぜゲームは他の物事に比べ、白い目を向けられてしまうのか。
私は、これを世間の理解が及んでいないことが原因だと考える。
「結局、ゲームがしたいからって、世間のせいにするのか」と、思われてしまうかもしれないが、そういうことを言いたいのではない。
つまり、ゲームのことをよくわかっていない人が、「よくわからないものだし、とりあえず自分の世界から排除してしまおう」という心理のもと、ゲームは悪、というレッテルを貼っているように思うのだ。
ここまで、ゲームに焦点を当てて話してきたが、実は、これはゲームのみに関する問題ではない。
私が小学校の時代、休み時間に文庫本を読む男子だった私を、校庭で体を動かし遊ぶ同級生たちは白い目で見ていた。
今でこそあまり目にしなくなったが、体と心の性が一致しない人たち、いわゆるトランスジェンダーの人々に対して冷たい時代は長いものだったと記憶している。
物の大小はあるにせよ、これらはひとえに、常識の範囲外のものに対する恐怖、および排斥しようとする心理からくるものであると考える。
恐怖という感情は、理解が及ばないものに向けられる。
これは人間の心理であり、根源的恐怖である。
そして、その恐怖を身近に置いておきたくない、遠ざけようと、それらを排斥しようとする。
つまり、マイノリティ=理解しがたいものたち=怖いものたちは、それがそれで在るだけで恐怖され、排斥されてしまうのだ。
しかし、本当にそれが正解なのだろうか。
理解しがたい、できないものはこの世に数えきれないほど存在する。
それらに対する正しいスタンスは、それでも理解しようとする姿勢なのではないだろうか。または、「そういう考え方もあるのか。私にはよくわからないけれど。」と、許容する器量や余裕ではないだろうか。
もちろん、すべての物事や考えを許容しろ!と、言いたいわけではない。どうしても受け入れられないもの、受け入れてはいけないものは、人それぞれ確かに存在する。
ただし、それは本当に受け入れることのできないものだろうか、と、考えることをやめてはいけない。
拒絶、許容の前段階として、まずは理解してみようとしてみること、知ることがある。
そして、それが自分にとっての許容範囲内にあるものかを考えること。
もし理解できないものであったとしても、それを排斥しようと動くのではなく、是非を自分なりに判断する。それだけでよいのだ。
よくわからないものだし、とりあえず捨て置く、なんていうのも一つの手だ。
最悪なのは、思考停止に与して、「よくわからないけれど、みんなが悪者にしているから、多分悪者なのだろう」と決めつけ、排除することだ。
皆、常識が壊れてしまうことは怖いと感じるものだろう。だが、いつまでも常識の殻に閉じこもっているままでは、進化や成長は望めない。
そういった人々が増え、凝り固まった「常識」が支配する世界を想像してみる。
よくわからないものたちは声を上げるひますらなく、よくわからないもののまま、同調圧力に淘汰されてしまう。
そんな世界で、自分が思いがけずマイノリティとなった時。
その瞬間を想像すれば、恐ろしさがわかるだろうか。
(田中 陸斗)